氏名
北村 昌也(きたむら まさや)
自己紹介
大学卒業後、1993年(平成5年)にキヤノン販売株式会社(現 キヤノンマーケティングジャパン株式会社)に就職。東京の勤務地で売掛金業務をしていたが、楽しかった1年間の転勤時代(静岡営業所での営業)に近い仕事をしたいと思い、写真用品等の開発・販売会社に転職。

その時代は老齢厚生年金の受給要件としての被保険者期間が25年(300月)(※)であったこともあり、会社にしがみついて生きていくつもりであった。しかし、それはかなわず、写真用品等の開発・販売会社を退社。
専門性がないと厳しい時代であることを痛感し、その後に就職した物流会社の労務部門では会社員をしながら、社労士試験の勉強をした。合格後、社労士事務所を経て、2024年8月1日に独立。
趣味は水泳と料理。水泳は27歳ころから、ほぼ毎週1500m泳ぐ。30代は、2000mくらい泳いでいましたが、今は、1500m。2024年9月に空いているジムを見つけてから、1500mを一定の時間で泳ぐことを目標にしている。(40分/1.5kmを目標。2025年5月現在)
料理は、独立後から。それまでご飯を炊いたことがなく、炊飯器も持っていなかったので、レンジでチンするご飯で間に合わせていた。今は、飯はお鍋で炊いている。自分で作った方が美味しいし、健康的だし、時短になるし、食費も浮くし、でいいことずくめ。そして、「自分で自分を食わせていく」ことができれば、それは自信につながる。「もうレシピ本はいらない」(稲垣えみ子著)を料理のバイブルにしている。
(※)平成29年8月に老齢厚生年金の受給資格期間は25年から10年に短縮されまた。映画の中では未来から未来人がやってくることがあります。未来から来たので過去に起きたことを知っています。未来人北村がやってきて、『その制度は変更されるよ。厚生年金の保険料が払い損になることはないから、会社にしがみつく必要はないんだよ。』とアドバイスしてくれたら、また違った人生を歩んでいたかもしれません。しかし実際には未来人はやって来ず、そんなアドバイスもありませんでした。
実績
写真用品等の開発・販売会社の総務部にて、3年間にわたり、給与計算(約130名)、社会保険手続き、採用等を担当。物流企業では8年間ほど、約2000名の勤怠管理、給与計算の支給額決定までの部分を担当。日給制給与を月給制給与へ変更する作業や人事評価制度にも携わる。
令和7年度 労働保険臨時相談指導員
令和7年11月 足立区戸籍住民課窓口等業務委託評価委員会 委員
令和7年11月 足立区国民健康保険業務等委託評価委員会 委員
令和8年2月 荒川区指定管理施設労働条件審査
主な経歴
昭和63年 東京都立上野高等学校卒業
平成5年 城西大学理学部数学科卒業
平成5年 キヤノン販売株式会社入社
平成10年 写真用品開発販売会社入社
平成27年 物流、センター運営会社入社
令和5年 第55回社会保険労務士試験合格
令和6年2月 社会保険労務士勤務登録
令和6年8月 社会保険労務士北村事務所開業
誕生・出身
1969年6月、東京都文京区生まれ。東京大学医学部付属病院で生まれ、物心ついたころから、社会人になるまで足立区で育ちました。大学卒業後に就職した会社で静岡に転勤になり、親元を離れました。地方への転勤を左遷とかいう人もいますが、静岡はいいところです。暖かいし、富士山が大きく見えるし、東京より歩くスピードがゆっくりだと思います。『○○らー』という静岡弁もせかせかしていない感じです。まさに住めば都です。静岡県静岡市竜南三丁目に1年間住み、その後、東京都葛飾区高砂六丁目に2年間住んでいました。
血液型
AB 型
兄弟
妹(2つ下)。姪っ子2人。
継続してること
- 右足の先の違和感の為のストレッチ スポーツクラブのコーチから教わったストレッチを2020年8月から開始してほぼ毎日、寝る前にやっている。
2013年ごろからこの右足の違和感(血流を止めたときのしびれるような感じ)はあったが、病院に行っても骨に異常はないといわれ、治療法はわからなかった。 - 座骨神経痛の為のストレッチ ユーチューブで視聴してやってみたら効果を感じられたので、2023年9月ごろから開始してほぼ毎日、就寝前にやっている。座骨神経痛は、2023年8月に発症し、2年以上経過してすでにほぼ治っているがストレッチは継続している。
- 水泳 27歳ごろこらほぼ毎週泳いでいる。泳いでいる方が体の調子がいいので継続中。「ほぼ」というのは、プール施設が利用できない年末年始などを除いてというレベル。
行ったことのある都道府県
東京都、埼玉県、神奈川県、千葉県、茨城県、群馬県、栃木県、福島県(安達太良山)、新潟県、静岡県、愛知県、岐阜県(下呂温泉)、山梨県、長野県、山形県、広島県(尾道市)、長崎県、熊本県、大阪府、京都府、奈良県、滋賀県(長浜市)
行ったことのある外国(現在はもっぱら国内です。パスポートも有効期限切れです。)
シンガポール、中国(中山、長春)、台湾、タイ
映画館で見た作品
時をかける少女(1983年夏)
探偵物語(1983年夏)
マトリックス(1999年)
マトリックス リローデッド(2003年)
マトリックス レボリューションズ(2003年)
CASSHERN(2004年)
祈りの幕が下りる時(2018年)
ミッションインポシブル ファイナルレコニング(2025年6月)
機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ キルケーの魔女(2026年2月)
見に行ったライブ
FUKUYAMA MASAHARU 35TH ANNIVERSARY DOME LIVE 2025 SOUL(ベルーナドーム9月14日)
愛用品
iPhone16e
Dell xps13
M4 Macbook Air 15インチ
Desktop Third wave AR5 8500G Ryzen5
Excel
Word
GAS
Notion
Dropbox
PhraseExpress
WordPress
LightShot
ブログテーマ Twenty Twenty-Four
ストウブ ピコ・ココット ラウンド ブラック20㎝
アルバイト歴
家庭教師
ガードマン
レンタルビデオ、レンタルCDショップの店員
お祭り、イベントの設営
自分史
0歳(1969年・昭和44年6月2日)
次男として、東大病院で生まれる。
長男がいたのですが、長男が1歳のころに文京区の実家の段差のある玄関で歩行補助具を付けた状態で転倒し、昭和43年に亡くなったそうです。
4歳(1974年・昭和49年)
水神幼稚園入園
当時は入園希望者が多かったのか、願書をもらうのに並んだそうです。
冬場は、アルミの弁当箱を炭のストーブを囲う鉄製の網の上に置いて温めてた。
幼稚園に小ぶりな体育館とザクロの木あり。
飛行機型のジャングルジムと滑り台が合体したような遊具あり。
6歳(1976年・昭和51年)
水神幼稚園卒園
卒園の年は、「つきぐみ」でした。
足立区の端っこにあった幼稚園なのですが、現在は廃園になっているみたいです。
女優「山田まりや」の名前が水神幼稚園の卒園者名簿にあったという噂を聞いたことがあるが、真偽のほどは不明。
6歳(1976年・昭和51年4月)
淵江第二小学校入学
7歳(1977年・昭和52年)
このころは、夏はザリガニ、セミやカブトムシ、カマキリを採って遊んでいた。
舎人公園や足立トラックターミナルのあたりは、今のようにきれいに整備されていなく、沼地だった。近所の「かっちゃん」や「ハラダ君」などと一緒に、「よっちゃんイカ」をエサにして、よくザリガニをとりに行っていた。めんこやビー玉、凧揚げもやっていた。インコ、金魚を飼っていたのはこの頃。
8歳(1978年・昭和53年)
銀河鉄道999テレビアニメシリーズに夢中になっていた。メーテルの絵を描いたりしていた。また父に最初に買ってもらったレコードは、ゴダイゴの「銀河鉄道999」である。今聞いてもかっこいい。
9歳(1979年・昭和54年)
ガンダムテレビアニメシリーズが放映され、毎週見ていた。ガンプラも大流行し、自分もたくさん作った。油性塗料で色を塗っていた。当時は、発売日に模型屋さんに行っても売り切れるほどの人気ぶりだった。作りきれないプラモデルをのちに捨ててしまったが、もったいなかったかもしれない。プラモデル作りは好きだったので、物を作るのは元来好きなのだろう。
10歳(1980年・昭和55年)
小学校5年の担任の先生がイナヤマ先生。今でも尊敬している。イナヤマ先生から通信簿で「心を集中し、よく勉強している。」と褒められて勉強が好きになった。授業中に騒いでいて、イナヤマ先生に平手打ちを食らったことがあったが、自分が悪いと自覚があるので納得している。今は小学校で平手打ちは出来ないのだろう。そんな教育が本当にいい教育なのか?
11歳(1981年・昭和56年)
フジイ君やクータンなどとよく遊んでいた。また、マエサンに呼ばれて初めてお誕生日会に行った。友達を呼んでお誕生日会をするという習慣がなく、ある種のカルチャーショックでもあった。
12歳(1982年・昭和57年)
アニメ「キャプテン翼」に影響されて中学1年、2年はサッカー部に所属。オーバーヘッドキックをやろうとしたが無理だった。ピンというあだ名の身長の低い子がゴールキーパーをやって、いわゆる不良もサッカー部に多く所属していた。中1の前期に中1の前期に中央議員というクラスをまとめる役割を引き受ける。中1までは、両目とも1.0あった視力が中2で左目が0.2となり、中3で両目とも0.2となった。
12歳(1982年・昭和57年3月)淵江第二小学校卒業
12歳(1982年・昭和57年4月)竹の塚中学校入学
13歳(1983年・昭和58年)
サッカー部はもてた。バレンタイのチョコも複数もらい、一番のモテ期だったかもしれない。勉強も好きだったので、図書館で勉強することもあった。
14歳(1984年・昭和59年)
友人と近所のウキウキ館でよく卓球をして遊んでいた。ラケットはシェークハンド。3年7組で、担任の先生はミヤキョウと呼ばれていた。高校進学で初めて受験勉強をした。
15歳(1985年・昭和60年)
高校の入学式の日、上野駅から学校に抜かう途中、上野公園の桜がとても綺麗だったことは今でも印象に残っている。入学式の日は、平日の朝で人もあまりいなかった。通勤で使う千代田線がとても混んでいた。京成線の博物館動物園駅を利用したこともあるが、今はその駅は閉鎖されているらしい。この頃は臆病で、ハンドボール部に入部するにも時間がかかった。
16歳(1986年・昭和61年)
高校の塀の反対側は上野動物園だった。また、芸術大学の学食で昼食を食べたりもした。団地に住んでいることにコンプレックスがあり、持ち家に住みたいと思っていた。親からもらう通学定期代を浮かして貯金するために、自転車通学をしていた期間もあった。
17歳(1987年・昭和62年)
高校のころは総じて楽しい思い出ばかりだった。スキーを始めたのも麻雀を覚えたのも高校時代。途中から大学受験の勉強をはじめるも、自由な校風ということもあり、強い意志がないと勉強に集中しづらい環境もあった。
18歳(1988年・昭和63年)
大学の入学試験に落ちて留年。いい大学、いい就職先、幸せな人生みたいな価値観がその当時はまだあった。御茶ノ水にある大学受験予備校に通う。この頃のバイブルは、「田中康夫の大学受験講座」。まだ、日本経済が右肩上がりの時代だった。
19歳(1989年・昭和64年)
第一希望ではなかったが、大学に合格して入学。通学定期代を浮かすために池袋まで、自転車やバイクで通学したりもした。バイト代を住宅資金のために貯金し、郵便局の10年満期の定額貯金にしていた。この時代は利回りもよかった。